ナイス・エイジングは、私が日ごろから提唱している攻めの養生です。養生というと、病気を未然に防ぐための健康法のように思われてきました。しかし、本当の養生は健康という枠では語れません。健康かどうかなど関係なく、どれだけいのちのエネルギーを高めることができるかが養生の鍵です。日々、いのちのエネルギーを高め続け、死ぬ日を最高にし、その勢いで死後の世界に突入していくのです。それこそ、ナイス・エイジングだと、私は思います。
ナイス・エイジングとアンチ・エイジングの違いは、死をどうとらえるかということかもしれません。
アンチ・エイジングが老いに必死で抵抗するのは、その先にある死を認めたくないからではないでしょうか。あるいは、死のことを考えないようにしたいのかもしれません。
お釈迦様は生老病死を四苦と言いました。それ以来、人々は苦しみは何とか取り除かないといけないと努力してきました。人類は四苦との闘いをずっと続けてきたのかもしれません。
しかし、だれでも病気はするし、年は取っていくし、必ず死にます。つまりは、避けられないものです。そこから何とか目を離そうとする。実は、どうあっても逃げられない定めのようなものから逃げようとすることこそ、一番の苦なのではないでしょうか。
死が苦とか不幸だとしたら、私たちはみんな、苦・不幸に向かって突っ走っているようなものです。どんなにがんばって生きようが、成功しようが、必ず死で人生が終わります。死を苦だと考えている限り、何をしてもそこには虚しさが襲ってきます。特に、高齢になれば死のささやきが聞こえてきますから余計にそうでしょう。
そこがアンチ・エイジングの限界だと、私は思っています。中国では、究極の養生は不老不死です。つまり、中国の養生はアンチ・エンジングなのです。
私が言うナイス・エイジングは、いつの日か必ず死ぬことが前提です。死を避けようとしたり、死から目をそむけるのではなく、むしろ死を手の内に入れてしまうのです。積極的に死のことを考えながら日々を過ごすことです。
私は、あるときから「今日が最後の日」と思って生きるようになりました。朝、目が覚めると、「よし、最後の日だ。いい一日にしよう」と決意します。そうすることで、死に対して親しみを感じることができるようになりました。
折に触れて、自分の死に対して思いを巡らせます。それがとても気持ちのいい時間となっています。
死のことを考えたり話したりするのは縁起が悪いと嫌がる人もいますが、避ければ避けるほど死はネガティブなものになります。一人静かに食事をしたり、お酒を飲んだりするときには、死について考えてみるのもいいのではないでしょうか。家族で死のことを話し合ってみるのもいいと思います。
もっと日常の中で死を考えながら、自分はどうやって死んでいきたいのか、できれば楽しく考えられるようになれば、きっとそういう人は「ナイス」と言ってもらえるような最期を迎えることができるはずです。
アンチ・エイジングではなく、ナイス・エイジングを目指していただきたいと思っています。