私はがん治療の現場で60年近く働いています。常に死がかたわらにありました。
死を意識したのは、医者になる前、解剖の実習で60歳くらいの中肉中背の女性のご遺体と対面したときでした。そのときのことは鮮明に覚えています。
静かに横たわる女性を見て私が感じたのは、「この方はどんな一生を過ごしたのだろう」ということでした。
森鴎外の小説に『鴈』(がん)という作品があります。東大医学部の学生が主人公で、彼はよく東大の近所を散歩していました。いつも一軒のしもた屋の前を通ります。1階は扉も窓も閉まっています。2階の窓がわずかに開いていて花瓶が見えます。花瓶にはチューリップが生けてありました。その部屋のことが何となく気になって、いつも2階を見上げながら通り過ぎていました。
あるとき、いつものように2階を見上げると、花瓶の向こうに女の人の姿が見えました。目と目が合います。
この女性はお玉さんと言って、ある高利貸しのお妾さんでした。医学生とお玉さんとは、目と目を合わせるだけの関係でしたが、2人の間に流れる締め付けられるような切なさ、かなしみが印象に残っています。
解剖実習での女性を見ながら、私は彼女とお玉さんが重なりました。
あれから60年以上がたちました。私は医療の一番の基本はお互いのかなしみを敬い合うことだと思っていますが、初めての解剖実習でご遺体と対面して、お玉さんのかなしみに触れたような気がしたのが、その原点かもしれません。
死は終わりではなく、永遠に続くいのちのプロセスである。それを前提にして患者さんに寄り添うのが医療です。からだやこころだけでなくいのちにも寄り添う。そのためには死のこと、死後の世界にも思いを馳せないといけないのではないでしょうか。
アメリカのマイケル・ニュートンというカウンセラーの方が書いた『死後の世界を知ると、人生は深く癒される』(ヴォイス)という本を読み直しました。
死後の世界は秩序正しく作られているということが書かれています。死ぬとお迎えが来ます。そしてガイドがついて死後の世界を案内してくれます。
図書館へ行くと、そこには自分のファイルがあります。自分に関するすべてのことが記録されています。
それを読みながら、これまでの生き方を見直します。そして、これからどう生きていくかを考えるのです。
自分のファイルにはどんなことが書かれているのかワクワクしませんか。それを読んで、どんなことを感じるのか。楽しみで仕方ありません。
コロナ禍という、これまで体験したことのないような環境に置かれたのも、何か意味があると思います。この機会に死というものをさまざまな視点から考えてみるのもいいのかもしれません。