Ryoichi Obitsu

Medical Doctor

生きるも死ぬもあるがまま

帯津良一

1936 年埼玉県生まれ。東大医学部卒業。 東大病院第三外科医局長、都立駒込病院外科医長をへて、 1982年帯津三敬病院を開設。2004年春、東京・池袋に統合 医学の拠点、帯津三敬塾クリニックを開設。先代会長とホピ 族ヒーリングの旅に行くなど、真氣光の良き理解者である。

帯津 良一 obitsu ryoichi

日本ホリスティック医学協会会長

先代会長との思い出
月刊ハイゲンキ 連載
ネバーエンディングストーリー
~果てしなきいのちの時空をこえて より

<<中川会長との最初の出会いは、1988年上海の氣功シンポジウム>>

先代の中川会長が亡くなって丸10年。中川会長に初めてお目にかかったのは、1988年に上海で開かれた国際氣功シンポジウムのときでした。私は、1982年に病院を開設し院内にどうしてもほしかった氣光道場を作りました。当時、本場中国気功をならったものが正当な気功との風潮がありました。私は最初から、いくら本場だからと言っても中国にこだわる必要はないだろうとその点は、中川会長とよく似ているかと思います。中川会長も、中国で触発されて氣功を始めたことは間違いないでしょう。でも、中国流ではない、中川流を取り上げ、ひとつの大きな勢力を作り上げました。当時、外氣功は、内氣功をしっかりとやらないとできないというのが常識でした。それを、「一週間で氣が出せる」という、従来の枠から見るととんでもなく非常識な講座を下田で始めたわけです。あのときは相当の風当たりがあったはずです。それでもやり続けた「志」には感服します。

<<アカデミックではなかったけれど、すごい熱気が上海から発信された>>

上海のシンポジュームへ行くと、日本から参加した人は、どちらかと言うと、アカデミックなにおいのしない方々でした。中川会長も、ハイゲンキを取り出して、これで万病が治るのだとデモンストレーションをやっておられました。私は「大道芸人みたいだな」と、そんな印象で中川会長の発表を見ていた記憶があります。中国側からは、林厚省さんという、氣功麻酔で有名になった氣功師も参加していて氣功麻酔による手術を見学することができました。帰国後、中川会長とは、池袋で再会しました。「ぜひ会って話がしたい」ということで出かけて行ったときに、「実は、突然、氣が出るようになった」と聞かされました。それも、夢に白髭の老人が出てきて、「明日から氣を出して治療しろ」と言ったというわけです。私は、この話にとても興味をもちました。たとえば、剣の修行者が、あるところまでレベルアップすると、夢で奥義を教えられて、名人になるという話が、昔からありました。だから、中川会長が夢を見て氣を出すようになったというのも、あり得る話だなと思いながら聞いていたのです。

<<私たちのいのちは、300億年の遥かなる旅の途上にある>>

場の思想から言っても、夢でお告げを受けるというのは、決してオカルトではありません。「俺は俺、お前はお前」ということではなく、「我」と「汝」を区別せずに、お互いの存在を認め合いながらコミュニケーションの石垣を築いていくようなあり方です。こういった心境に近づいたときに、たとえば中川会長が体験した夢からのメッセージや剣の達人が夢で教えられるといったことが起こってくるのではないでしょうか。いかに場を共有できるか。氣功が求めるところです。「氣は、病気治しのためにあるのではない」と、中川会長は言っておられたようです。私も同感です。中川会長は、かけがえのない戦友でした。そして、今でも、彼の場と私の場はしっかりとつながっていると信じています。


(2)先代会長とアリゾナの大地をヒーリングしたことを思い出す

<<無邪気に食事をする中川会長の姿にはとても心がなごんだ>>

中川会長との思い出で言うなら、アメリカのアリゾナへ行ったときのことはとても印象に残っています。ネイティブ・アメリカンのホピ族の村を訪ねたのです。8月の暑い時期でした。飛行機では、ずっと中川会長と隣同士の席で話すと言っても、ほとんどしゃべっているのは中川会長で、私はずっと聞き役でした。でも、本当に楽しそうに話す方でした。飛行機の中で食事が出たときも、そんなにおいしいものが出るわけでもないのに、中川会長は、「おいしい、おいしい」と言って、本当に嬉しそうに召し上がっていました。私は、中川会長の無邪気な姿が、すっかり気に入ってしまいました。

<<中川会長と一緒にホピやナバホの人たちを治療した>>

ナバホの人たちがいるフラグスタッフ空港を降りると、「ホピの予言」という映画を撮った宮田雪(きよし)さんと大場正律さんが出迎えてくれました。ホピの土地は、ウランの採掘が行われ、そのときに被曝した人がたくさんいます。採掘地へも案内してもらいました。ウランは、土の中にあるときは秩序を保って大人しくしているのですが、いったん、外へ取り出すと、強烈な放射線を発して、まわりの人たちに悪影響を及ぼします。その影響をもろに受けたのがホピやナバホというネイティブの人たちだったのです。彼らの惨状を見かねた宮田監督が、中川会長に、ぜひ治療をしてあげてくれないかと依頼したことで、今回のホピの村訪問は実現したのです。その日の夜、中川会長が私の部屋へやって来ました。そして、「明日は先生にも氣功治療をしてもらいたいので、パイプをつないであげる」ということになって、中川会長の氣を受けることになりました。十分くらいたつと、「これでつながりました」と中川会長からお墨付きをもらいました。ずいぶん簡単なものなんだなと思って、「これでいいのですか?」と質問すると、「普通は一週間かかるんですが、帯津先生はこれくらいで大丈夫です」と嬉しそうにしていました。まあ、あれくらいの大家が言うのですから、私もそんなものかと思い、翌日は、中川会長のやり方を見ながら、放射線被曝で苦しむ人たちに氣功治療を行ったわけです。私の氣功が効果あったかどうかはわかりませんが、みなさん、えらく喜んでくれて、きっと家へ戻った人が隣の人に話すのでしょう、次から次へと治療してほしいという人がやってきました。治療器具も薬もないところでは、氣功が一番の治療法だということを実感しました。

<<氣功というのは場を共有すること>>

私は内氣功ばかりをやってきました。中川会長は外氣功専門でした。当時、あちこちからよく「外氣功についてはどう考えていますか?」と質問されました。私は、「まだ、はっきりしたことがわかっていないので、病院で使うには時期尚早だと思います」と答えていました。しかし、私の場の理論から言えば、内氣功も外氣功も基本は同じです。氣功というのは、場を共有するということです。太極拳なら、そこに参加している人たちが氣を共有し、ひとつの場を作り上げます。その場のエネルギーが人を癒していくのです。外氣功も同じです。氣の送り手と受け手との間で氣を共有します。そして、そこに場を作り上げるのです。私の病院にはかなり重症の人がたくさん入院しています。歩くのがやっとで、とても氣功などできないという人もいます。そんな人には、何もしなくていいから、道場へ来るといいですよと言います。そこにいるだけで、場のエネルギーを受けられるからです。あれも外氣功のひとつと言ってもいいかもしれません。ホピ族の村は、かなり場が乱れていました。だから、そこに住む人たちの場も乱れ病気になってしまいます。中川会長と私が行ったことで、どれくらい場が高まったかはわかりませんが、ほんの数日行くだけでは一時的には上がったとしても、また元に戻ってしまうでしょう。住民たちが場のことを知って、たくさんの人で場を高める努力をしたら、きっとあの砂漠地帯も、昔のような高いエネルギーをよみがえらせるのではないでしょうか。