帯津良一
vol. 123
<わからないからと言って氣を無視するのは間違っている>

 私たちのからだは臓器の集合体ではありません。臓器と臓器、細胞と細胞の間には「空間」があります。その空間は真空ではないし、空気が詰まっているわけでもありません。いったい、そこに何があるのか、だれにもわかりません。現代医学は、臓器ばかりに注目しますが、この空間にも何かの働きがあるはずです。

 人間のからだは、わからないことだらけ。私はこの臓器と臓器の間、細胞と細胞の間には「氣」が満ちているのではないかと思っています。

 私たちの生命場は秩序をもっています。この秩序を支えているのが氣なのです。不摂生や老化などによって生命場の秩序が乱れると、その乱れが病気という形で現われます。生命場の秩序の乱れを整えるのに、西洋医学は無力です。氣の力で秩序を取り戻す必要があります。

 伝統的な中国医学では氣がとても重視されてきました。「氣」「血(血液)」「水(血液以外の体液)」の三要素のバランスを保つことが健康維持に欠かせないことだとされています。体内の血や水がとどこおりなく循環することがとても重要で、その循環を支えているのが氣です。氣がおとろえると血や水の流れがとどこおって、それがからだやこころの不調につながります。

 現代医学では氣の正体がはっきりととらえられていません。エネルギーなのか素粒子なのか情報なのか、まだ解明されていません。しかし、わからないからと言って、氣をいかがわしいものだといって、無視するのは間違っていると思います。

 私たちのからだは、風邪をひいて熱が出ても平熱に戻ります。転んでけがをしても傷口が自然にふさがります。どうしてそんなことが起こるのか。私は、氣や生命場のもつ秩序を整える働きからきているのではと考えています。それが「自然治癒力」と呼ばれているものかもしれません。

 病気になると、薬に頼ってしまいがちですが、もっと生命場を高めることに意識を向けていただきたいものです。

 生命場は、孤立して存在しているのではありません。まわりの生命場とつながっています。個人の生命場は家族という生命場、地域という生命場、さらに地球、宇宙ともお互いに影響を与え合っています。その果てにあるのが、「虚空の場」です。この虚空の場に自分の生命場を近づけようとすること。これが養生の最大のポイントです。

 私たちの生命場は虚空の場で誕生しました。永遠のいのちに満ちあふれていました。その生命場は150億年の間に宇宙を生み出し、地球という惑星を誕生させ、地球上の生きとし生けるものを育みました。

 現在の私たちの生命場は、このときからずっと続いています。

 ところが、今の私たちの生命場は、150億年の長い旅を続けてきたので、かなりポテンシャルが落ちています。そのポテンシャルを地球上で回復して、虚空へ戻っていけるようにするのが養生です。

 私たちが地球で生きる目的は、生命場のエネルギーを回復することです。虚空に戻れるほどのエネルギーを充電しないといけません。しかし、そのことを忘れて、ぼーっと過ごしてしまうと、十分なエネルギーを蓄えることができません。そんな状態で死んでしまうと、虚空まで帰れませんので、もう一度、地球でエネルギーの回復をしないといけません。それが輪廻です。輪廻というと、ロマンチックに考える人が多いようですが、私の考えでは、大学の受験に落ちたり、進級できなくて落第するようなものです。私は、もう地球では十分にやることをやりましたので、さっさと虚空へ戻るつもりです。そのためには、何歳になってもエネルギーの充電を忘れてはいけません。老後はのんびりするとか、花鳥風月を愛でるなどと言っていると、エネルギー不足で故郷へ帰れなくなってしまいます。

<考え方、感じ方ひとつで、いくらでもときめきは見つかる>

 日々の生き方がエネルギーの充電量を決めます。「ときめき」をもって生きることで生命場のエネルギーは高まりますよと、私はいつも言っています。愚痴や不平・不満ばかりを言っていると、エネルギーが下がります。愚痴りたくなるような出来事であっても、ちょっと考え方を変えてみると、ときめきが生まれることがあります。

 がんと診断された患者さんですが、5年生存率が30 パーセントと聞かされ、最初は10人のうち3人しか生きられないのかとがっかりしました。この時点では生命場のエネルギーは落ちただろうと思います。しかし、あるとき考え直しました。10人なら3人でも、100人だったら30人だな、1000人だったら300人だ。1万人いれば3000人が助かる。3000番目までなら入れるかもしれない。そう思うと、希望が出てきて、こころがときめいたと言っていました。その人は、手術から30年たった今もとても元気にしています。

 10人のうちの3人も1万人のうちの3000人も割合としては同じです。しかし、分母を大きくするという工夫で、希望と安らぎとときめきを得ることができたのです。

 仕事一筋に生きてきた人が無事に定年を迎えて、これからは好きなことをやろうとホッとした途端に大きな病気に見舞われることがあります。仕事をする上での、ある種の緊張感が急になくなったことに原因があるのではないでしょうか。同時に、それまで仕事を通じて感じてきたときめきを失ってしまったということもありそうです。

 仕事にときめきを感じることは大切です。しかし、仕事ばかりではなく、もっと別のものにもときめきを感じられるように、定年前にやっておくことも必要です。そうすれば、仕事でのときめきがなくなっても、別のもので補うことができます。

 ときめきは、こういう状況だからときめくということではなく、考え方、感じ方です。

 私はよく「ストレスはないのですか?」と聞かれます。のほほんと生きているように思われているようです。毎日仕事をしていれば、ストレスがないはずがありません。患者さんの容態が悪くなることもあります。スタッフと意見が違うこともあります。原稿が思うように進まないこともあります。いろいろなストレスにさらされて生きています。

 しかし、私はストレスがあるときのほうがときめきます。なぜかと言うと、私の最高の喜びは仕事が終わったあとの晩酌ですが、仕事が忙しかったり、ストレスが大きいと、その分、お酒がおいしく飲めるからです。ビールを飲んだ瞬間、「ああ、よくがんばったなあ」という満足感で、こころがときめきます。忙しかったりストレスがあるほうがそれだけ全力疾走になります。その分、お酒がおいしいのです。暇で平穏無事に終わった一日はジョギングをした程度なので、飲むお酒はもうひとつです。

 だれからも嫌がられるストレスですが、それがあることでお酒がおいしく飲めると思うと、ストレスがありがたくなります。

 私のこの感覚はちょっと異質かもしれませんが、人は考え方、感じ方ひとつで、どんなことにもときめきます。ときめきを探し出す、作り出すことが、生命場を高めるための一番の方法です。

 その点、芸術家や研究者はときめきのチャンスが多いようです。アメリカの調査では、もっとも長生きの職業は、芸術家と研究者だという報告が出ています。

 芸術家にも研究者にも定年がありません。死ぬまで制作や研究を続けます。いい作品を作ったりすぐれた研究が認められることはうれしくてたまらないでしょう。苦労すれば苦労するほど、作品や研究が完成したときの喜びは大きいはずです。だから、生命場のエネルギーが高まり長生きできるのではないでしょうか。

 しかし、みんながみんな、芸術家や研究者になることはできません。今の仕事や生活をコツコツ続けていかないといけません。だからと言って、ときめきがないとは限りません。

 あまりにも劇的なときめきを求めてしまうと、なかなか見つかりません。確かに、非日常的なとんでもない出来事が起こってときめく場合は、生命場のエネルギーは一気に高まります。しかし、単調な毎日であっても、小さなときめきを集めていくことで、何年かたつうちに大きなときめきになるものです。自分は平凡な人間だからときめきなど無縁だと思わないことです。小さなときめきに意識が向くかどうか。それが大切なことです。

 たとえば、ご飯が炊き上がったとき、炊飯器のふたを開けると炊き立てのご飯のにおいがぱーっと広がります。あのにおいにときめきを感じる人はいるはずです。ご飯を茶碗によそって、ひと口食べたときに「おいしい」と感じれば、それもときめきです。そんなことにときめきを感じられるようになれば、朝昼晩と、1日に3回もときめくことができるわけです。

 ご飯にときめきを感じられる人は、ほかの小さなこと、当たり前だと思っていることにもときめきます。立派な便が出てはときめき、散歩でかわいい花を見つけてはときめき、家族の元気な顔を見てはときめき、朝、すっきりと目覚めたことにときめきます。

 そうなったらしめたものです。まわりはときめきだらけ。生命場のエネルギーはどんどん高まります。そういう感性を育てていくことも養生なのです。探せばいくらでもときめきはあるはずです。ときめき探し。やってみてください。