WEB限定記事

い氣い氣ピープル ハッピーライフ

by Yasuhisa Oharada

子どもたちを健やかに育て、不毛な対立のない世の中を作りたい

~大阪府・乾みや子さん

18歳になるまで家の中はトラブル続き

 「お生まれはどこですか?」

 「奈良です。そこから話すと、いくら時間があっても足りないかも」

 いたずらっぽく笑う。話が始まるや、小説か映画の世界に引き込まれたような高揚感に包まれた。確かに長い話になりそうだ。彼女の激しい人生は生まれたときから始まっていた。この部分をはしょってしまっては「乾みや子」という物語は始まらない。

 「物心ついたときには父と母は離婚していました」

 「祖父が織物の会社を経営していて、すごく大きなお屋敷に住んでいました。使用人もたくさんいました」

 「戦争未亡人だった母の姉も一緒に住んでいましたが、その伯母、祖父母、伯父夫婦、母と、みんなの折り合いが悪くて、いつも喧嘩をしていました。朝は怒鳴り声と茶碗が割れる音で目が覚めることもありました」

 「母は、私のせいで父とうまくいかなくなったと思い込んでいて、私につらく当たりました」

 「祖父が亡くなったら、母の兄が家も工場も売り払ってしまいました。母と私は家を追い出され、3畳と4畳半の狭い文化住宅に住むことになりました。親は当てにできないと思って必死でアルバイトしました」

 これはほんの一部。18歳になるまで家の中は騒動の連続だった。心を痛めつつも、「なんて愚かなの」と覚めた目で大人を見ていたと言う。そんな少女が、その後どんな人生を歩んだのか。世の中の闇に埋もれてしまっても不思議のない境遇をへて、彼女は社会と真正面から向き合う道へと進んでいく。

乾みや子 彼女の社会に対する見方は、中学、高校と過ごした奈良女子大付属で培われたようだ。複雑な家庭環境があって、そこに刺激的な出会いが加わった。幼い頃からこれでもかというくらい大人のネガティブな側面を見せられてきた。だからこそ、「こうあってほしい」という理想を吸収できた。弱者と呼ばれる人たちの立場からの視点が彼女の中で育っていったのだ。

 「中1のときに高1の先輩とお付き合いしていました。それが今の夫です。いい先生もいっぱいいて、鈴木良先生という歴史の教師と特に親しくなりました。先生は部落問題を研究するようになり、対立するのではなく同じ国民なのだから仲良くすべきだといつもおっしゃっていました。私も夫も先生の話が聞きたくて、先生のいる社会科準備室に入り浸っていました」

 対立の不毛さは自分の経験から十分に学んだ。国民的融和が大切だという鈴木先生の言葉を彼女は素直に聞くことができた。社会に対する問題意識が芽生え、10代後半で、対立のない社会を作りたいと本気で思った。その思いは50年たっても変わらない。

無認可の保育園では運営費の捻出に走り回った

 高校卒業後短大へ進み保育士の免許を取得。20歳で大阪市立の保育園に勤めた。23歳で結婚。出産と育児をへて、1978年に無認可の共同保育所に就職した。待機児童の保護者たちがやむなく作って運営したところだったので、社会のさまざまな不条理にぶち当たるが、決してめげない。持ち前の反骨心で立ち向かった。

乾みや子 「国からも市からも一切資金の援助はありませんでしたので、運営費を作り出すために奔走しました」

 バザーや廃品回収だけでは追い付かないので、高価な宝石や時計の行商もしていたと言う。共同保育所や共同作業所のために商品を提供してくれる人がいた。魚屋の2階に事務所があって、ちょっと怪しげなブローカーに思えたが、信頼できる人の紹介だったし、実際に会ってみると人の好さそうなおじさんだったので、お世話になることにした。

 「段ボール箱に入れた1000万円分くらいの商品を自転車やバイクに積んで市役所や区役所を回りました。バブルの時期だったし、けっこう売れました」

 このブローカーばかりではなく、働くお母さんたちの味方になろうとする乾さんたちを見て、少しでも役に立てればと思った人はたくさんいたはずだ。

 「保育所はただの子守りではいけないと思っていました。子どもたちが健全に育つには集団が大切です。昔は地域で子育てをしました。それができないなら、保育園がそういう場所になるべきだと、スタッフは考えていました。給食も無農薬・無添加の本物のだしを利かせた薄味で、とこだわっていました。

 お昼寝も大切にしました。大人の慌ただしさに巻き込まれてしまって、子どもたちは十分な睡眠がとれていません。本当は家でゆっくり眠るのがいいのですが、それができない子が多いので、お昼寝で少しでもカバーしようと考えました。

 特に0歳児の育ちはその後の人生を左右するほど大事で、産休明け(生後3ヶ月)からの保育のあり方を、保護者や職員とともに切り開いてきました。

 子どもたちにとっていい環境作りをするのはとても楽しかったです。給料は安かったけれども、夢と希望と誇りをもって働いていました」

 ぎりぎりのところで園は持ちこたえた。乾さんもやる気満々だった。ところがある日突然、首が上がらなくなった。「頸肩腕(けいけんわん)症候群」と診断された。トイレにもはっていく状態。このままでは大好きな仕事も辞めないといけないと覚悟したら、ひょんなことで知った気功が救ってくれた。

 94年95年と、気功の講座を受けた。それまで考えたこともなかった目に見えない世界の話に、はっと思うことはたくさんあった。気と呼ばれる生命エネルギーを気功師から受けると、両親へのネガティブな思いが薄れていった。父にも母にもそれぞれの人生が必死で生きていた。そんな思いが湧き上がってくると、生を受けたことへの感謝の気持ちが湧き上がってきた。すると、不思議なことに首の痛みも軽くなっていった。心のもち方の重要性を痛感した。人と人とは目に見えない力でつながっていると実感できるようになった。

 社会をまっすぐに見つめる目線が角度を増して、今まで気づかなかったことが意識に入ってくるようになった。両親ばかりではなく、自分が充実した日々を送れるのは、たくさんの人に助けられたからだ。これまで以上に、まわりに感謝できるようになった。乾みや子自分が変わればまわりが変わる。気功の講座で教わったことだったが、それが本当であることを身をもって知った。気功の講座をきっかけに、いいことが次々と起こった。2001年には園が認可され「社会福祉法人どんぐり福祉会 どんぐり保育園」となって、運営費が国から出るようになった。さらに多くの市民の浄財で新しい園舎も建ち、今では4つの保育所を運営するまでに発展したのだ。

 認可直後には夢だった大学院にも行き、発達保障と家族支援の修士号をとった。

 これからも、人と人とのつながりを大切にしながら、保育をとおして女性の自立を支え、不毛な対立のない世界の実現に力を注いでいくつもりだと言う。

●社会福祉法人どんぐり福祉会 どんぐり保育園

大阪府東大阪市中小阪5-14-2(〒577-0804)

06-6723-7588

http://www.donguri.ed.jp/