帯津良一
vol. 127

<令和には平和を求めていこうという思いが込められている>

 5月1日、元号が「平成」から「令和」に変わりました。ずいぶんと前から、新しい元号が何になるのか、テレビや新聞で話題になっていたようです。

 私は、新しい元号が何になるか、ほとんど興味がありませんでした。新元号発表のときは、たまたまテレビがついていて、「令和」に決まったことを知りましたが、令和と聞いて「なかなかやるな」と感心しました。と言うのは、私のように氣功をやっている者にとっては、とても身近な言葉だったからです。

 氣功という言葉はまだ歴史が浅くて、1950年代に中国の劉珍(りゅうきちん)という方が提案したものです。劉さんは北京から東へ280キロほど、北戴河(ほくたいが)というところにある「氣功療養院」の初代院長を務めた方です。

 それまでは、長く受け継がれてきた伝統的な健康法は、導引(どういん)や吐納(とのう)などさまざまな言い方をされていて、数え切れないほどたくさんの流派があり、それぞれが勝手にやっている状態でした。これでは広がらないというので、劉さんは「調身

(姿勢を正して)」「調息(呼吸を整え)」「調心(心を穏やかにする)」という三要素を満たしていれば、それを「氣功」と呼ぶといった形で体系化しました。これが毛沢東の新生中国で非常に受けて、あっと言う間に広がり、定着しました。

 さて令和です。「荘子(そうじ)」という書物に氣功の前身である導引のことが書かれています。それが「導和(どうきれいわ)引体令柔(いんたいれいじゅう)」です。氣を導いて和しめ、体を引いて柔せしめるということですが、その導と引をとって導引と名付けられたようです。つまりは、しっかりと氣を取り込み、体を動かせて経絡を伸びやかにさせることの大切さを説いているのです。もうひとつの吐納は呼吸法のことです。

 私は導引には郷愁のようなものがあって、「導氣令和 引体令柔」の8文字から場のエネルギーの高さを感じます。導氣令和という言葉は大好きで、それが新しい元号になったのは大歓迎でした。

 しかし、官房長官の説明によると、令和は万葉集からとった言葉だということでした。万葉集についてはよくわかりませんが、私にとっての令和は氣功のルーツということで、新しい元号と仲良くしていきたいと思っています。

 令和には「和せしむ」という意味があって、いい言葉です。新しい天皇の時代、平和を求めていこうという思いが込められているものと推察できます。

 今は地球の場のエネルギーが低下しています。そのために、天災が非常に多くなっています。地震も多発していますし、大雨が降るなど異常気象も続いています。昨年の夏は、いたるところで豪雨があって、大きな被害がありました。さらに、世界中で紛争が起こっています。国と国の争いだったり、内戦だったり、テロだったり、血なまぐさい出来事が絶えません。日本では戦争はないものの、それでも毎日のように殺人事件が起こっています。無残な交通事故も後を絶ちません。殺伐とした世の中になりつつあるように感じます。このままでは地球がダメになってしまうのではという危機感があります。私も私なりに、昔の美しい地球を取り戻すにはどうしたらいいか、腐心してきました。

 地球をどうこうしようと思っても規模が大きすぎます。まずは、一人ひとりが自分の生命場のエネルギーを高めることを考えることでしょう。そういう人が増えれば、自ずと地球の場のエネルギーは高まるはずです。そう思って始めたのが養生塾です。まだ、目に見えての効果が出ているわけではありませんが、日本中で生命場を高めようとがんばってくれている人が増えてきています。令和というのは、人間もそうだし、地球もそうだし、氣の調和をとるということだと思います。それを念頭に置いて、新しい代を生きていければと思ってます。

<とても勢いがあり希望が満ちていた昭和30年代前半>

 私は昭和11年の生まれです。50代前半までは昭和を生きました。その後、平成を生きて、令和に入りました。令和に生まれる人たちにとっては「昭和は遠くなりにけり」ということになるのでしょうが、私自身の80数年を振り返ると、昭和30年代の前半が最高にすばらしい時代だったように思います。

 私が医学部に進学したのは昭和32年4月でした。終戦から10年以上がたち、やっとその痛手から立ち直り、人々の間に希望の灯火(ともしび)が点(とも)り始めたころです。老いも若きも、輝ける未来を感じて、生き生きとしていました。まさに高度成長に向かう時期です。前へ進もうとするエネルギーにあふれていました。

 私は、そういう上げ潮の雰囲気の中で大学生活を送っていました。私が東京大学、そして大学のある本郷界隈に憧憬の念を抱くようになったのは夏目漱石の『三四郎』という小説がきっかけでした。九州から上京した東大生の小川三四郎が主人公。三四郎の魅力の虜になった私は、暇があると本郷界隈を一人で歩き回りました。

 西片町に下宿したことがあります。西片町は三四郎がヒロインの里見美子(みねこ)と初めて会ったところです。西片町に引っ越してしばらくしてから、伊勢湾台風がありました。東京にもその影響があって風雨が強まった日の夜、白山通りに「バー・フローラ」が開店しました。たまたま前を通りかかった私は、2日ほどしてお店を訪ねました。以来、40年以上も通い続けました。このフローラとママは、私の記憶の中に鮮明に残っています。

 昭和30 年代は、日本にとっても私にとっても、勢いのある輝ける時代でした。令和という新しい元号になって、またああいう活気と希望のある世の中が戻ってきてほしいと願ってやみません。