「こんな船で南の海までマグロ漁に行っていたんだ」
何年か前、初めてここを訪ねたときの感想だ。とても遠洋漁業に出る船とは思えない小さな漁船。もっと大きな船かと思った。あのとき第五福竜丸が向かったマーシャル諸島まで2000キロ以上ある。マグロを追っての何カ月もの旅だ。さぞかし過酷な航海だったろう。
1954年1月22日、福竜丸はたくさんの人に見送られて焼津港を出港した。乗組員は18歳から39歳までの23人。
3月1日、福竜丸はマーシャル諸島のビキニ海域にいた。早朝のことだった。突然、船が黄色い光に包まれた。
「何だろう」
乗組員は不安に駆られた。
「西から太陽が上がってきたみたいだ」
そんなふうに様子を伝えた乗組員もいた。
しばらくしてドドドドッという轟音が海底から突き上げてきた。地震か。海底火山の爆発か。何が起こったのかまるでわからなかったが、ただ事ではないことに遭遇したことはだれもが感じていた。
西の空に巨大な入道雲が広がった。どんどん船に向かってくる。上空が真っ暗になった。そして雨が落ちてきた。普通の雨と違うのは、白い粉が混じっていることだった。みぞれのようだ。デッキにも白く積もった。乗組員の頭にも降り注ぎ、口や耳、鼻にも入り込んだ。
これがあとから大変な事態をもたらせることになる。
「核実験が行われたかもしれない」
アメリカが秘密裏に行った実験に遭遇したのか。もし、そうだとしたら目撃者である福竜丸乗組員はどうなる? 消されてしまう。実際、この海域で消息を絶った漁船もいた。接近する飛行機や船はないか。もし自分たちを攻撃しようという気配があったらすぐに日本へ打電しないといけない。恐怖だった。慌ててマグロ漁の縄を引き上げ、焼津へと引き返した。何が起こるかわからない。乗組員たちは不安でいっぱいだった。
福竜丸が目撃したのはアメリカの水爆実験だった。とてつもなく巨大な水爆。もし東京の真ん中に落とされたら関東地方全域に被害が及ぶほどの威力のある爆弾だった。
そして、船の上で乗組員の頭上に降り注いだ白い粉は、放射能を含んだ恐ろしい「死の灰」だった。
数時間後から乗組員に異変が起こった。頭痛、吐き気、めまい、下痢。髪の毛が抜け始める人もいた。焼津に戻るまで2週間かかった。どんなに心細かったことか。
福竜丸が帰港するや、日本中が大騒ぎになった。半年後には、無線長だった久保山愛吉さんが亡くなった。
「放射能の雨が降ってくる」
全国民がおののいた。乗組員たちは入院し、その後、各地に散らばっていった。
このビキニ事件を機に、原水爆に反対する声が広がった。事件のことは口にすまいと決していた乗組員たちの中にも、大石又七さんのように、積極的に体験を語ったり、本にする人も出てきて、次第に、ビキニ事件の全貌が明らかになってきた。