この裁判の原告団の多くが、顔と名前を公表していない。と言うのも、身元が明らかになることへの恐怖があるからだ。いまだに子どもや孫にまで差別が及ぶのではという不安も消えない。それだけ強烈な差別にさらされてきたのだろう。ずっと家族がハンセン病だったことを隠して暮らしてきたに違いない。
患者さんたちの話に戻ろう。療養所では大変な生活が待っていた。
一見すれば、外と同じ生活が営まれていたと言う。しかし、現実はまったく違う。療養所へ入ると、まずは風呂へ入れられ、そのすきに、着ていたものはすべて焼却され、囚人服のような着物があてがわれる。お金はすべて没収され、その代わりに療養所でしか通用しない金券が渡された。狭い部屋に何人もの人が押し込められ、軽度の患者は、重症の患者の看病をした。あらゆる作業が、患者たちの手によって行われていた。さまざまな職業の人がいて、大工さんは家を作り、宮大工の人が神社や納骨堂を作り、畳屋さんもいれば鍛冶屋さんもいた。農家の人は、畑を耕して野菜を作った。
彼らの住む世界は、療養所の中だけだった。外へ行くには許可が必要だったし、脱走する人もいたが、連れ戻されれば、厳しい懲罰が待っていた。所長には裁判をしなくても、脱走者や反抗する人たちを罰する権利があり、冬場にはマイナス10度以下になるような懲罰房に閉じ込められ、そこで命を落とした人も少なくなかったそうだ。
結婚は認められていたが、それは入所者の不満をやわらげるためのもので、結婚する男性には、子どもができないように断種手術が施された。
「医者ではなくて看護婦長が手術をした。下半身の毛をそられて、手術のときはどこかへ引っ張り込まれるような痛みがあった。あらゆることは許せても、あの断種手術の屈辱だけは許せない」
という証言にも、胸が痛くなる。
妊娠することがあれば、有無を言わさず堕胎手術が行われた。
亡くなっても故郷へ帰れるはずもなく、療養所内にある納骨堂で眠ることになる。
「ふつうは、人が亡くなると別れが悲しくて泣きますよね。でも、療養所で亡くなると、みんなが良かったなと喜んであげるんです。亡くなった人は、こういう苦しみから解き放たれるんですから。煙になって家へ帰って行けるのですから」
煙になって家へ帰れることを喜ぶ。なんと切ないことか。1996年にらい予防法が廃され、2001年には熊本地裁で行われていた、「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」に勝訴し、ハンセン病の患者に対して、国が過ちを認めた形になった。
しかし、それで解決したわけではない。ハンセン病を取り巻く問題は、たとえば、ホテルが元患者の宿泊を拒否するなど、根強い差別意識は残されたままである。高齢になった入所者たちも、今度のことについてたくさんの不安を抱えたままだ。
いくら政府が間違いを認め、謝っても、差別や偏見にさらされてきたハンセン病患者や家族の方々が癒されることはない。彼らのつらい体験を、現在から未来に生かしていくのはどうしたらいいのか、一人ひとりが考えていく必要があるだろうと思う。