今年は返還50周年で盛り上がっている小笠原諸島。2011年には世界自然遺産に登録された。東洋のガラパゴスと呼ばれ、その豊かな自然は世界有数のものだ。小笠原の島々は、4千数百万年前にプレートとプレートのぶつかり合いによって噴出したマグマが固まってできたと言われている。海の中に忽然と現れた陸地だった。
できたころの小笠原諸島には草一本なかった。ときがたつに連れ、マグマは冷えて固まり、風や波に削られて土ができてきた。そこへどこからかわからないけれども植物の種がたどり着く。あるいは、鳥が飛んできたり、昆虫や動物たちが流れ着いた。小笠原で生息する生き物は、何らかの方法で広い海を渡ってきたものばかりだ。この島に漂着すること自体、けっこうハードルが高いことだった。そのため、限られた種の生き物がここで暮らし始め、独自の進化を遂げて、小笠原諸島ならではの生態系が作り上げられてきた。いわゆる固有種と言われる、この島にしかいない珍しい生物もたくさんいる。
小笠原はどこの大陸からも遠いため(東京からは約1000キロ離れていて、おがさわら丸で24時間かかる)、長い間無人島だった。捕鯨が盛んになってからは、捕鯨船が立ち寄って水と食料を補給する場所として重宝されていた。最初に人が定住したのは1830年。まだ200年たっていない。欧米系の人が住み始めた。それでも、不便な孤島だ。人口が増えることもない。小笠原固有の植物も動物も自分たちだけの世界でのんびりと過ごしていた。
私は毎夏10日間、20人くらいの仲間たちと一緒に小笠原で過ごす。ボニンブルーと呼ばれている海の青さは格別。カヤックやスノーケル、ドルフィンスイムを楽しむ。山歩きも楽しい。緑の木々、小さな花たち、鳥たちの鳴き声が安らぎを与えてくれる。ちょっと小高い峠に出れば、目の前にきれいな海が広がる。
早くに起きて丘に登り朝日に手を合わせる。夕方は展望台で海に沈む夕日に包まれる。そんな時間を10日も過ごせば、生まれ変わった自分を感じる。
命の洗濯をさせてくれるありがたい小笠原だが、この豊かな自然を守り続けるのはとても難しくなってきている。人間がたくさん来るようになったことが、その引き金になっているのだろうと思う。そんな中で、私たち旅行者が知らないところで、小笠原の自然に危機が迫り、島民たちが必死でその危機を回避しようと活動している。そのことを今回はお知らせしたい。
ここ10年ほど、小笠原で大きな問題となっているのが「ノネコ」だ。野生化したネコたちが引き起こしている“環境破壊”。人間が島に持ち込んだ飼い猫が、何らかの理由で野生化し、いつの間にか数が増えて貴重な固有種の鳥たちを襲って食べてしまっている。小笠原の固有種の鳥たちは、もともと天敵と言われるような動物がいなかったため、警戒心が弱く、自分を食べようとする生き物がいるとは夢にも思っていない。それだけ平和に生きていた鳥たちだった。そこに現れた俊敏なハンターたち。彼らからすれば、小笠原の山の中にいる鳥たちは簡単に捕獲できるありがたい“餌”だった。
私が、小笠原のノネコの問題を知ったのは近所の動物病院の待合室で見た掲示板だった。そこに張られている新聞記事の中にあった小笠原という活字が目に飛び込んできた。小笠原が大好きで毎夏行っている者として、「小笠原」という単語には吸いつけられるように目が向いてしまう。何だろうと思って読むと、小笠原でネコが野生化して困っているので、東京都の獣医師会と島が協力して、保護したネコたちの里親を探そうという運動が繰り広げられているということだった。そして、わが家のウサギがお世話になっている獣医さんも、協力者の人だった。
その記事だけではどういうことが起こっているのか、よくわからなかった。そこで、わが家のウサギの主治医であるN獣医師に事情をたずね、今年の夏、小笠原へ行ったときには、昨年できたばかりの「小笠原世界遺産センター」で環境省の担当者にお話を聞くことができた。また、「小笠原が救った鳥」(緑風出版)にも、ノネコの問題が詳しく書かれているというので読んでみた。さらには、ノネコは、小笠原諸島だけでなく、イルカで有名な御蔵島でも問題になっており、同じようにネコを保護して里親を探そうという動きが起っていることも知った。野生化したネコたちが、絶滅するかもしれない
貴重な鳥たちを食べてしまう。何か、地球上で起っている環境問題の縮図がそこにはあるような気がしてならない。
小笠原のノネコによる環境被害は、母島にある南崎というところで海鳥の死体が相次いで発見されたことから発覚した。そこはオオミズナギドリやカツオドリの営巣地で、この調子で鳥が何物かに襲われ続ければ、親鳥ばかりではなく幼鳥も卵も被害にあうだろう。その結果、営巣地は消滅してしまい、海鳥たちがいなくなってしまうことにもつながってしまう。これは放置しておけない。島民たちは見回りを強化しつつ、監視カメラを設置して、何が起っているのかを調査した。そしたら、ネコが自分の体よりも大きな海鳥をくわえている姿がカメラに残されていた。ネコが犯人だということがこのときに明らかになったのだ。2005年のことだ。
さらには、その年の冬、父島では数十羽しか生息していないと言われているアカガシラカラスバトの営巣地でもノネコが確認された。絶滅寸前の鳥にも危機が迫っているのは明らかだった。もう待ったなしだった。
わなを仕掛けてノネコを捕獲しよう。そこまでは良かった。しかし、捕獲したネコをどうすればいいのか。殺処分。とても心苦しいことだったが、そうするしか方法がないのでは。苦渋の選択だった。ところが、思わぬことから新たな道が開けてきた。
東京獣医師会に電話をかけた。
「ネコを安楽死させる方法はありませんか」
いきなりそんなことを言われて電話を受けた獣医師も驚いたことだろう。動物の命を助ける獣医師としては聞き捨てならないことだった。島の担当者は、小笠原で何が起っているのか、ていねいに説明した。獣医師も、なぜネコを安楽死させなければならないのか、理解できたようだった。そして、こう言った。
「小笠原では貴重な鳥や生き物を守りたい。でも私たちはネコも守りたい。野生動物は小笠原でしか生きられないけれどもネコは都会でも幸せになれるはず。どちらの命も救いましょう」
そうするのが一番であるのはわかっていた。でも、そんなことはできるのだろうか。島の担当者は首をひねった、すると、
「東京にネコを送ってください。私たちのところへ」
思わぬ提案だった。野生化したネコが人間になれるかどうかわからない。しかし、やってみないとわからない。とにかく、ネコの命を救うために東京獣医師会はがんばってみると言ってくれたのだ。
わが家のウサギの主治医であるN医師のところにも1頭の小笠原ネコがいた。
「小笠原から送られてきたネコを人に馴らすために訓練してきました。そしたら愛着が出てきてきてね。だれかに渡すのがしのびなくなって自分で飼うことにしました」
とN医師は抱っこしたネコの頭をなでながら笑った。
野生化したネコは、飼いネコと違って人をとても警戒している。捕獲されたときには、荒れ狂い、叫び、捕獲カゴの隙間から手足を出して爪で引っかこうする。カゴごとジャンプするほどの暴れようだそうだ。それを飼いネコにするのは簡単なことではない。
捕獲されたノネコは、受け入れ先の病院が決まるまで父島にある「ねこ待合所(通称ねこまち)」という施設で暮す。そこにはネコたちの世話をするスタッフたちがいて、野生化したネコに人間との暮らしを思い出させようと声をかけたり、健康診断をしたりする。ここでもN医師のように、ネコたちに情が移って別れのときにはいつも泣いてしまうそうだ。そこまでしてもらえば、ネコもうれしいことだろう。この時点で、人間は自分たちの敵ではないとわかり、暴れたり攻撃をしてきたりすることはなくなるようだ。
それでもネコたちを引き取る獣医さんたちは、それを一般の家庭で飼うことができるまでにしないといけない。
「小笠原から来た段階では、まだまだかわいがる前段階ですね。まずは人とはどういうものかをわかってもらわないといけません。ですから、人の姿を見せるところから始めて、改めて危害を加えないこと
をわかってもらわないといけません。
食べ物をあげることで親密度は増してきます。さらには、さわってみる。体をなでられたりするのは気持ちいいものだとわかるとずいぶんと違ってきます。そしたら、膝に乗ってみようかというところまでいけます」(N医師)
そんな苦労があって、さらには里親探しが始まる。N医師のように獣医師自らが里親になってくれる場合もあるが、1人が何頭も飼うというわけにもいかない。もともと小笠原で野生のネコだったということを理解の上、飼ってくれるネコ好きを、さまざまなコネクションを通して探すのだ。
「健康診断もして、何か問題があれば治療もしますが、野生のネコだったので、先天的なトラブルやケガがあったりします。そういうこともあると承知の上で引き取ってくれる方を探しています」(N医師)
ペットショップで買ってくるのとはちょっと訳が違う。それでも、小笠原の自然の保護とネコの命の両立を理解してくれる人も少なくなくて、「小笠原が救った鳥」によると2017年で777頭を超えるネコが海を渡った。中には、家族の一員となったネコの故郷を見たくて小笠原を訪ねる飼い主もいるそうだ。「ねこまち」へも足を運んで、ここでうちの子は過ごしたんだなと感慨深げにスタッフと話し込んでいく。ここから旅立ったネコが東京で元気に過ごしている写真を見せられ、スタッフもうるうるしてしまう。「いい人にもらわれて良かったね」と、思わず写真に声をかけてしまう。本当にいい話ではないか。
この取り組みによって、母島の南崎の海鳥営巣地では2014年には8年ぶりにカツオドリの営巣・巣立ちが確認できた。2016年もヒナの誕生が観察されたそうだ。
さらに「幻の鳥」と言われてきたアカガシラカラスバトも、ここ数年、集落でも目撃されている。一時は40羽ほどしかいなくなったそうだが、今では500羽ほどにまで回復してきている。
これで万々歳と言いたいのだが、そうもいかないこともある。まだ山の中で暮すノネコはいるわけで、このままではまた数が増えていく。ネコは繁殖サイクルが速くて、環境省の試算によると、1頭のメスネコが3年後には2000頭以上になるそうだ。
世界遺産センターの人も、そのことに触れると少し表情を曇らせた。
「捕獲作戦でネコも急激に減って、鳥たちも数も増えてきたのですが、最近、それも頭打ちになってきました。
と言うのは、どうもネコたちが、捕獲カゴのことを学習しているようなのです。あるカメラに母ネコと子ネコが映っていました。捕獲カゴを遠目に見ながら、そこを避けて歩いていきました。その画像から感じるのは、母ネコが子ネコに『あのカゴに近づいちゃダメだよ』と教えているようなのです。
そうやってネコたちが学習していくと、違った捕獲の方法を考える必要も出てきます」
さらに、ネコを飼う島民にも、今の現状を理解してもらわないといけない。島民が飼っていたネコが逃げ出したり、捨てられたことで、ネコは野生化した。彼らが絶滅危惧種を捕食するのは生きるためには仕方のないことだ。ネコを悪者にするのではなく、もっとしっかりと管理ができていなかった人間の側こそ反省すべきなのだ。どこでどんなネコを飼っているかきちんと登録をすること。マイクロチップを埋め込んだり不妊手術をすること。そういったことも、ノネコ問題を解決するには重要なことだ。
イルカの島として有名な御蔵島でもオオミズナギドリが野生化したネコに捕食されるという問題が起っている。こちらでも、東京都獣医師会と協力して捕獲、里親探しを行なっている。
小笠原諸島や御蔵島のノネコの話を聞いていると、地球と人間との関係が頭に浮かんでくる。人間はどうなのだろうか? 地球を小笠原諸島と考えよう。そこに異常繁殖した人間という生き物。人間は、地球上のあらゆるものを食べ尽くす。地球からたくさんの生き物が絶滅して姿を消してしまう。植物を切り倒し、地下資源を奪い合う。ネコよりもはるかに性質が悪いではないか。
ノネコは、それを何とかしようとする人間がいて、問題は少しずつ解決している。しかし、人間にはその愚かな行動を止めてくれる存在がない。好き勝手やっても捕獲されることもない。人間の愚行は人間が止めるしかない。そんなことも小笠原のノネコの問題から考えてみたいものだ。
●ネコを飼いたいと思っている方、小笠原や御蔵島のネコも検討していただけるとありがたいと思います。小笠原の場合、譲渡の流れは次のようになります。
小笠原で捕獲されたネコの情報
ネコの譲渡に関しての問合せは、小笠原ネコに関する連絡会議へ
04998-2-3779
御蔵島で捕獲されたネコ
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