帯津良一〜行動派たちの新世紀 vol. 208
月刊ハイゲンキ
2019年9月号 掲載記事

リニューアルされた展示館。福竜丸が伝えたいこと

 夢の島に都立第五福竜丸展示館がオープンしたのが1976年(昭和51)6月10日のこと。43年も前のことだ。鋭角に尖がった屋根が特徴で、中へ入ると、木造マグロ漁船の「第五福竜丸」がドーンと展示されている。40年以上もたった建物はさすがに老朽化。昨年の7月から大規模改修工事が行われていた。4月2日にリニューアルオープン。久しぶりに新しくなった展示館を訪ねてみた。

突然黄色い光に包まれた 小さなマグロ漁船 「第五福竜丸」

 「こんな船で南の海までマグロ漁に行っていたんだ」

 何年か前、初めてここを訪ねたときの感想だ。とても遠洋漁業に出る船とは思えない小さな漁船。もっと大きな船かと思った。あのとき第五福竜丸が向かったマーシャル諸島まで2000キロ以上ある。マグロを追っての何カ月もの旅だ。さぞかし過酷な航海だったろう。

 1954年1月22日、福竜丸はたくさんの人に見送られて焼津港を出港した。乗組員は18歳から39歳までの23人。

小原田泰久 3月1日、福竜丸はマーシャル諸島のビキニ海域にいた。早朝のことだった。突然、船が黄色い光に包まれた。

 「何だろう」

 乗組員は不安に駆られた。

 「西から太陽が上がってきたみたいだ」

 そんなふうに様子を伝えた乗組員もいた。

 しばらくしてドドドドッという轟音が海底から突き上げてきた。地震か。海底火山の爆発か。何が起こったのかまるでわからなかったが、ただ事ではないことに遭遇したことはだれもが感じていた。

 西の空に巨大な入道雲が広がった。どんどん船に向かってくる。上空が真っ暗になった。そして雨が落ちてきた。普通の雨と違うのは、白い粉が混じっていることだった。みぞれのようだ。デッキにも白く積もった。乗組員の頭にも降り注ぎ、口や耳、鼻にも入り込んだ。

 これがあとから大変な事態をもたらせることになる。

 「核実験が行われたかもしれない」

 アメリカが秘密裏に行った実験に遭遇したのか。もし、そうだとしたら目撃者である福竜丸乗組員はどうなる? 消されてしまう。実際、この海域で消息を絶った漁船もいた。接近する飛行機や船はないか。もし自分たちを攻撃しようという気配があったらすぐに日本へ打電しないといけない。恐怖だった。慌ててマグロ漁の縄を引き上げ、焼津へと引き返した。何が起こるかわからない。乗組員たちは不安でいっぱいだった。

 福竜丸が目撃したのはアメリカの水爆実験だった。とてつもなく巨大な水爆。もし東京の真ん中に落とされたら関東地方全域に被害が及ぶほどの威力のある爆弾だった。

 そして、船の上で乗組員の頭上に降り注いだ白い粉は、放射能を含んだ恐ろしい「死の灰」だった。

 数時間後から乗組員に異変が起こった。頭痛、吐き気、めまい、下痢。髪の毛が抜け始める人もいた。焼津に戻るまで2週間かかった。どんなに心細かったことか。

 福竜丸が帰港するや、日本中が大騒ぎになった。半年後には、無線長だった久保山愛吉さんが亡くなった。

 「放射能の雨が降ってくる」

 全国民がおののいた。乗組員たちは入院し、その後、各地に散らばっていった。

 このビキニ事件を機に、原水爆に反対する声が広がった。事件のことは口にすまいと決していた乗組員たちの中にも、大石又七さんのように、積極的に体験を語ったり、本にする人も出てきて、次第に、ビキニ事件の全貌が明らかになってきた。

だまってじっとたたずんでいる福竜丸から何かを感じてほしい

 もし福竜丸が被ばくしていな ければ、マーシャル諸島での核実 験は表沙汰にならなかっただろう。日本に放射能の雨が降り注いでいる事実も公にならなかった。 核に反対する運動も広がらなかった。あれから65年、今でも福竜丸は、核の恐ろしさを伝える重要なメッセンジャーとしての役割を果たしてくれている。ビキニ環礁が世界遺産に登録されたのももとをたどれば、福竜丸の被ばくがあってのことだろう。マーシャル諸島の人たちは、被ばくによる病 気に苦しみ、故郷の島へ帰れない人もたくさんいるそうだ。

 福竜丸自身も数奇な運命をたどった船だった。福竜丸が建造されたのは1947年。カツオ漁を目的とした「第七事こと代しろ丸」としてこの世に生を受けた。全長約30メートル、高さ15メートル、幅6メートル、総トン数140トンの木造船だ。やがて焼津でマグロ船に改造されて、「第五福竜丸」となった。ビキニ事件のあと、福竜丸はマグロ船としての役割を終え、「はやぶさ丸」と名前を変えて東京水産大学(現東京海洋大学) の練習船となった。1967年には廃船になり、解体業者に払い下げられた。使用可能な部品を残して、船体はゴミとして夢の島に捨てられた。そのまま朽ちていく運命にあったのだが、何の縁か、東京都の職員らが発見し、その廃船が福竜丸だとわかると、核問題に関心のある市民たちによって保存運動が起こった。

 エンジンも廃船時に取り外されて別の船に搭載されたが、その船が三重県熊野灘沖で座礁して沈没した。1996年に有志によって、エンジンが海底から引き揚げられた。

 ビキニ事件を語り継ぐ上で、福竜丸が実際に残っていることがどれだけ大きいか。もし、夢の島で朽ち果て、エンジンも海の底に眠ったままだったとしたら、ビキニ事件のことはもっと早くに忘れ去られていたはずだ。

 核兵器も原子力発電所も、まだまだ地球上から姿を消しそうにもない。核の恐怖を背負いながら 生きていかないといけない。

小原田泰久 福竜丸は、何も言わずに、だまって夢の島の一角にある展示館にたたずんでいるだけだ。しかし、 展示館へ行って、その姿を見ると、 古ぼけた小さな漁船だが、福竜丸が大切なことを一生懸命に伝えてくれているのを感じるはずだ。

 展示館は、見た目は以前と大きく変わったわけではない。床はきれいになった。訪ねてきた子どもたちがここへ座って、ビキニ事件の体験者たちの話を聞く場所だ。

 福竜丸に見守られながら、人類が大切にしなければならないことは何なのか。子どもたちは考える。 きっと、純粋な子どもたちなら、 福竜丸が発するメッセージをきちんとキャッチできると思う。無料で入館できる。しばしの間、福竜丸の作り上げた場に身を置いて、 核兵器や原子力発電所のこと、考えてみてはどうだろうか? 第五福竜丸は物言わぬ語り部だ。

 

●都立第五福竜丸展示館
東京都江東区夢の島2-1-1 夢の島公園内
TEL.03-3521-8494
⃝JR京葉線、メトロ有楽町線、りんかい線「新木場駅」徒歩10分