ハイゲンキ〜行動派たちの新世紀 vol. 209
月刊ハイゲンキ
2019年10月号 掲載記事

激しい偏見と差別。 政府が元ハンセン病患者の 家族に謝罪。

 今年の6月、熊本地方裁判所は、元ハンセン病患者の家族への賠償を国に命じる判決を下した。7月には政府が控訴断念を表明し、原告団の勝訴が確定した。患者さんはもちろん、家族の方たちも、どれだけ偏見・差別に苦しめられてきたか。そして、いくら政府が謝罪をしても、その傷は癒えないし、子どもや孫たちにまで差別が及ばないかという不安は消えないだろう。

ハンセン病の患者だけでなく、家族も村八分にされた

 1907年(明治40年)、政府は放浪しているハンセン病患者を収容し隔離するため、「癩予防ニ関スル件」という法律を作った。1909年には全国5か所に療養所が設置され、患者たちはそこへ収容された。さらに1931年には「癩予防法」が作られた。ハンセン病の患者を人の目に触れさせないことを目的とする法律で、この法律によってハンセン病患者は人間として生きる権利と自由が奪われたと言える。1953年には、「らい予防法」として改正されるのだが、その内容は大して変わらず、この法律が廃止されるには、1996年まで待たなければならなかった。

小原田泰久 療養所ができて110年になる。ハンセン病に感染しているとわかると、強制的に隔離された。家族とも離れ離れの生活。大人だけではない。子どもにも容赦はなかった。東京都東村山市にある多磨全生園も1909年にできた5つの療養所のひとつだ。その中に小高い丘がある。「望郷の丘」と名付けられている。脱走防止用の掘割を作ったときの残土を積み上げて作った人工の丘で、望郷の念に駆られた入所者が、ここに登って故郷の方向をながめたのだそうだ。かつては富士山や秩父や筑波の山々が見えた。もう二度と会うことのできない家族を思い、涙を流したことだろう。

 ハンセン病を出した家族も、遺伝で起こる病気だという迷信が根深く残っていたため差別された。

 「自分だけでなく家族が村八分にされる。それがつらかった。兄弟も学校でいじめられ、先生も差別する。病気のつらさよりも、家族の苦しみや痛みがつらい」

 そんな証言も残っている。ハンセン病の患者の家族という理由で結婚も就職もできなかったそうだ。今回の裁判では、家族に対しても深刻な差別があったとして、国の責任を認めたことになる。

いまだに子どもや孫たちにまで差別が及ぶのではという不安

 この裁判の原告団の多くが、顔と名前を公表していない。と言うのも、身元が明らかになることへの恐怖があるからだ。いまだに子どもや孫にまで差別が及ぶのではという不安も消えない。それだけ強烈な差別にさらされてきたのだろう。ずっと家族がハンセン病だったことを隠して暮らしてきたに違いない。

 患者さんたちの話に戻ろう。療養所では大変な生活が待っていた。

 一見すれば、外と同じ生活が営まれていたと言う。小原田泰久しかし、現実はまったく違う。療養所へ入ると、まずは風呂へ入れられ、そのすきに、着ていたものはすべて焼却され、囚人服のような着物があてがわれる。お金はすべて没収され、その代わりに療養所でしか通用しない金券が渡された。狭い部屋に何人もの人が押し込められ、軽度の患者は、重症の患者の看病をした。あらゆる作業が、患者たちの手によって行われていた。さまざまな職業の人がいて、大工さんは家を作り、宮大工の人が神社や納骨堂を作り、畳屋さんもいれば鍛冶屋さんもいた。農家の人は、畑を耕して野菜を作った。

 彼らの住む世界は、療養所の中だけだった。外へ行くには許可が必要だったし、脱走する人もいたが、連れ戻されれば、厳しい懲罰が待っていた。所長には裁判をしなくても、脱走者や反抗する人たちを罰する権利があり、冬場にはマイナス10度以下になるような懲罰房に閉じ込められ、そこで命を落とした人も少なくなかったそうだ。

 結婚は認められていたが、それは入所者の不満をやわらげるためのもので、結婚する男性には、子どもができないように断種手術が施された。

 「医者ではなくて看護婦長が手術をした。下半身の毛をそられて、手術のときはどこかへ引っ張り込まれるような痛みがあった。あらゆることは許せても、あの断種手術の屈辱だけは許せない」

 という証言にも、胸が痛くなる。

 妊娠することがあれば、有無を言わさず堕胎手術が行われた。

 亡くなっても故郷へ帰れるはずもなく、療養所内にある納骨堂で眠ることになる。

 「ふつうは、人が亡くなると別れが悲しくて泣きますよね。でも、療養所で亡くなると、みんなが良かったなと喜んであげるんです。亡くなった人は、こういう苦しみから解き放たれるんですから。煙になって家へ帰って行けるのですから」

 煙になって家へ帰れることを喜ぶ。なんと切ないことか。1996年にらい予防法が廃され、2001年には熊本地裁で行われていた、「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」に勝訴し、ハンセン病の患者に対して、国が過ちを認めた形になった。

 しかし、それで解決したわけではない。ハンセン病を取り巻く問題は、たとえば、ホテルが元患者の宿泊を拒否するなど、根強い差別意識は残されたままである。高齢になった入所者たちも、今度のことについてたくさんの不安を抱えたままだ。

 いくら政府が間違いを認め、謝っても、差別や偏見にさらされてきたハンセン病患者や家族の方々が癒されることはない。彼らのつらい体験を、現在から未来に生かしていくのはどうしたらいいのか、一人ひとりが考えていく必要があるだろうと思う。