今年の春、『原発の断り方』(月兎舎)という本が出版された。1963年、三重県度会(わたらい)郡南島町(現南伊勢町)と紀勢町(現大紀町)にまたがる風光明媚な芦浜に原発を建設する計画が発表された。賛成派と反対派の壮絶な闘いがあり、2000年に計画は白紙撤回となって、原発建設は中止された。その原発闘争で反対派の中心となって活動した柴原洋一さんがまとめたものだ。
寿都町、神恵内村がこれからどんなふうになっていくのか、この本を読んでいると予測がつく。大変なことになる。
地域の人間関係が破壊されていく危険性をはらんでいるからだ。
「古和浦(こわらい)は、五〇〇軒ほどの家々がひしめく小さな漁村だ。冠婚葬祭といわず日々助け合って暮らしてきた。なのに、生まれた時から一緒にやってきた隣人が、ある日を境に挨拶もしなくなる。知らんぷりをするどころか、睨みつけてきさえする。親子兄弟間の仲違いも少なくなかった。
子供が道でつまづき倒れたとする。助け起こす前に『(反対派か推進派か)どっちの子だろう?』とつい顔を確かめてしまう。両派の正組合員数が拮抗してきたので、相手派の誰かが亡くなったと耳にしては喜ぶ自分に愕然とする」(『原発の断り方』より)
原発誘致に関しては、どこでも多かれ少なかれ、こうした地域社会の分断と破壊は付き物なのだ。平和だった町が流血沙汰で大騒ぎになることさえある。
権力者が地域を支配しようとするとき、もっとも有効な方法は、住民を分裂させることだ。そのときにお金がばらまかれる。遠い昔から、この手法は使われてきた。アメリカ大陸にやってきたヨーロッパ人が先住民を支配するときにも、分裂させて闘わせて、本当に利益を得る人たちは、混乱を遠巻きに見ながら、次第に優位な立場を作っていく。傷つくのは、地域の人たちだけ。
これから町民、村民の議論が白熱するだろうが、その先には苦悩のシナリオがあることを念頭に入れて行動してもらいたいものだ。
原発の問題は、危険か安全かという話から始まって、人と人の争いになり、地域が崩壊するところまで行ってしまうものなのだ。核のゴミがたまっている以上、処理をせざるを得ないのはわかる。しかし、場当たり的に、お金に物を言わせて処分場所を決めてしまうのでは、その地域が崩壊するばかりではなく、次世代でも必ず問題が発生する。
問題の本質はどこにあるかをもっと真剣に論じる必要があるのではないか。核のゴミが問題になるなら、出さないようにすることが先決だ。つまりは、原発を止めること。それを決定した上での最終処分場の話ではないだろうか。
「処分場をどうするかは、国全体、あるいは世界規模で考えていく必要があると思います。自分が生きている間に何もなければいいのかということです。子どもや孫は、さらにもっと先の子孫は。そこまで視野を広めて考えれば、お金が入るから賛成しようとは割り切れないと思います」(樋口さん)
経済のことばかりが優先されて安易に原発を増やしたことで核のゴミという問題を抱えることになった。ここで今、安易に処分場を決めようとすると、さらに大きな問題につながってしまうことを忘れてはいけない。