山梨へ引っ越して2ヶ月が過ぎた。やっとこちらが日常という感覚になれた。東京のリズムとは違うゆっくりした流れに心地よさを感じている。アグリヒーリングという農業による癒しも少しずつだけれども動き出している。畑も確保した。そこで自然栽培をやって、ヤギを飼って…。夢は広がる。
妻と娘に引っ張られヤギを飼うことになった
「ヤギを飼う」
弘美と氣恵が言い出した。以前から、畑の除草をヤギにやってもらうと面白いねという話はしていたけれども、言ったことは行動に移すのがこの母娘のすごいところ。
飼うと決めたら次の動き。
実際にヤギを飼っている農家さんを訪ねて情報を仕入れないといけない。情報収集は私の役割とばかり、「知り合いに聞いてみて」と指示が飛ぶ。農業をやっている仲間に「ヤギを飼っている人を知らないか」と連絡をした。紹介されたのは愛知県の方。さっそくメールを送り、山梨か長野にだれかいないだろうかとお聞きした。すぐに返事があった。長野県にヤギのいる果樹園があるとのこと。
「行きましょう」
アクティブ母娘は考える前に動く。3時間ほど車で走って到着したのは、もうそれ以上先には民家がないと思えるような山の中。7年ほど前に東京から夫婦で移住してきたと言う40代のさわやかな男性・Tさんが出迎えてくれた。もともと造園業をやっていたので果樹から始めたそうだ。耕作放棄地を借りて徐々に農地も増え、野菜を栽培し、ニワトリやヤギを飼うようになった。
古い家をリノベーションして住居にし、裏には譲ってもらったビニールハウスでヤギを飼っている。隣の小屋からはニワトリの鳴き声が聞こえてくる。
ビニールハウスの外には山が広がっていて、ヤギたちはお腹がすいたり遊びたくなると外へ出て行く。夏場は、エサをやらなくても勝手に山の草を食べて、お腹いっぱいになったら戻ってくると言う。ときどき脱走するが、放っておけば帰ってくるそうだ。のどかにヤギたちと暮らす、何ともうらやましい生活だ。
4頭のヤギさんがいた。お父さんヤギは白と黒のまだら模様で立派な角がある。茶色のお母さんヤギのお腹には赤ちゃんがいて、2月くらいには生まれるそうだ。
ちっちゃな茶色のヤギが2頭。別の農園からもらわれてきた男の子と女の子で、いずれは夫婦になるのだろう。無心に干し草を食べている姿を見ていると表情が自然に緩んでくる。
「あの子、すごく気になるのよね」
弘美のアンテナが反応し始めた。顔が白く縁どられたかわいい女の子の方だ。
「ぴょんぴょんという名前です。人間にとても慣れている子です。ちょっと前まで動物と触れ合える公園にレンタルされていて、来た人たちを癒していました」
Tさんがていねいに説明してくれた。
「ほらほら、癒しのヤギさんよ。アグリヒーリングにぴったりじゃない」
弘美の目が光る。氣恵もぴょんぴょんに釘付けだ。こうなるともう止められない。弘美が言う。
「もし、ぴょんぴょんを譲っていただくとするとおいくらですか?」
ちょっと待て。まだ何の準備もできてないのに無理だろう。どこで飼うの? 小屋はどうするの? 飼い方だってわからないよ。ぴょんぴょんはこの果樹園にとっては繁殖用の大事なヤギだから売ってくれないよ。心の中で悲鳴を上げる。
「5万円くらいかな」
私の期待を裏切るように、Tさんの口から値段が出た。取引成立。
「やりたい」と思ったことは行動すれば実現する
そんな調子で妻や娘に引っ張られながら甲州ライフは進んでいる。ぴょんぴょんが来るのは3月の半ばと決まった。飼うと決まればいろいろなことがトントンと決まっていく。お借りした畑のオーナーからもOKが出た。ヤギ小屋も依頼した。小屋のまわりには柵を作らないといけないが、「柵はみんなで作ったらどう?」という氣恵の提案で、今はヤギプロジェクトの参加者を募集しているところだ。
市には80代のヤギ飼いの名人がいるという情報も入ってきた。ぜひとも訪ねて行ってお話をうかがわないと。
さらにヤギの話には続きがある。あちこちで話を聞くと、ヤギは集団生活をする動物だから、1頭にされると寂しくてたまらないらしい。
さてどうしようかと思っていたときに、ある人の紹介でヤギのいるなし農園を訪ねた。行ってみてびっくり。畑の脇を歩いていくと広い雑木林に出る。柵でいくつものスペースに分けられていて、そこに40頭ほどのヤギが暮らしているではないか。
動物が好きでたまらなくて、お子さんが独立したのを機になしを作りながらヤギを育てるという仕事に転職した女性が案内してくれた。親切にも、なしの木の剪定をしている手を休めて、1時間半ほど私たちのために時間を割いてくれたのだ。
彼女からも「1頭だと寂しがるよ」と言われた。ここでも弘美のアンテナがぴぴっと反応し、黒ヤギのカチドキ君がアグリヒーリングの仲間に入ることになった。
去年の暮れ。「来年はいい年になるといいな」と思っていたころ、まさかヤギを飼うようになるとは思ってもみなかった。正確に言うなら、いずれは飼うかもしれないが、まさかこんなに早くヤギ飼いになるとは考えてもいなかった。
この一連の流れで感じたのは、「やりたい」と思ったことは実現が可能で、本当に実現させたければ、思うだけで終わらせずに動かないといけないということだ。とんとん拍子に進むことばかりではないが、動けば確実にゴールに近づける。考え過ぎると動けなくなる。そこは私の弱点だが、妻と娘がそこを補ってくれた。できるところからやっていく。そうすれば、まわりの環境が整ってくるのだ。
私がイメージするアグリヒーリングの畑では、桃やブドウ、オリーブ、アーモンドといった果樹が実り、野菜も育ち、さまざまなハーブがあちこちでかわいい花を咲かせる。そこにヤギがいる。ミツバチがいる。
手作りのテーブルと椅子があって、老若男女、健康な人も病んでいる人も障がい者も集まり、ランチをしたりお茶を飲んだり、楽しい時間を過ごす。農作業をする人。ヤギ小屋を修理してくれる人。料理を作ってくれる人。みんなが得意なこと、やりたいことをやって過ごす。私はぼんやりしながら、みんなが楽しくやっている光景をニコニコしながら見ていればいい。
まだ借りた畑は荒れ地状態。何を夢みたいなことを言っているのだと笑われそうだが、イメージすれば、それにふさわしい氣が集まってきて場のエネルギーが作られる。必要な人が引き寄せられてくる。
人の前にヤギが来ることになったが、ヤギも場のエネルギーを作る大切な役割を果たしてくれるはずだ。
できることから一つひとつやっていこうと思う。
都会を離れて地方で暮らしていると、泥臭くはあってもたくましく生きられるようになるのかもしれない。こういう生き方もあるのだと思わせてくれる人がまわりにたくさんいる。都会のスマートさを見慣れている目にはとても新鮮に映る。コロナ後の新しい社会で生きるためのお手本が地方にはありそうだ。
空家を買ってリフォームし、賃貸住宅にする
今の家に住むことになった決め手は大家さんの人柄だった。不動産屋さんに案内されて家を見に行ったときはまだリフォーム中。一人の男性が作業をしていた。
「大家さんです」
不動産屋さんが紹介してくれた。
「?」
どうして大家さんがリフォームしているの? 状況が飲み込めないまま、自己紹介をしてまだ取り散らかっている家を見せてもらった。築50年が引っかかる。でも、昔の建物らしく大きな窓が南側にあって、お日様が部屋の奥まで差し込んでくる。今時珍しい縁側がほのぼのとした雰囲気を醸し出している。
「サザエさんのお家みたいだね」
氣恵の感想だ。一番に彼女が気に入った。2番目に気に入ったのが弘美。彼女はヒーラーなので、この家を包むいいエネルギーを感じたようだ。落ち着きと安らぎとやさしさ。
「本当にここでいいのだろうか」と何となく躊躇していた私だが、2階へ行って決心がついた。広いベランダがあって、そこから何と富士山が見えるではないか。毎朝、ベランダに出て富士山に手を合わせるイメージが広がってきた。そこでどういう生活をするか、頭に映像が浮かんでくるような家は当たりだと、私は勝手に思っている。
大家さんもリフォームの手を止めてあれこれ説明してくれている。
「この部屋にエアコンがあるといいな」
弘美がぽつりとつぶやく。それを聞きつけた大家さん。
「新しいのを付けますから」
約束してくれた。ほかにも、本棚も用意しますからとか、レースのカーテンを付けておきますとかずいぶんと気前がいい。話し方もていねいで、絵に描いたようないい人だ。
でも、なぜ大家さんがリフォームをしているのか。疑問が解けない。
「器用ですね。大工さんですか?」
聞いてみた。
彼は柔らかな声で答えてくれた。もともとは東京に住んでいた。数年前まではサラリーマン。自分のペースで動きたいと、長年、模索を続けてきたそうだ。
「何をしているときが楽しいだろう?」
そう考えたときに出てきたのが、DIY(Do It Yourself)。物を作ったり、家を修繕するのは得意だし、苦にならない。その技術を生かせないか。また試行錯誤が始まった。
そして行き着いたのが、空き家を買い取ってリフォームして人に貸せばいいという発想だった。すでにそのビジネスで生計を立てている人もいた。ただ、東京では資金的に厳しい。サラリーマンをやりつつ、田舎で物件を探して購入し、休みの日に集中してリフォームをした。ストレス解消にもなった。
あちこち物件を探して動いているうち、山梨県の甲州市にたどり着いた。土地勘はなかったが、東京からも遠くないし、空き家の価格も手ごろ。ここを中心に動こうと決め、サラリーマンを辞めて、単身赴任した。
わが家が何軒目になるのかはわからないが、もう手慣れたもので、人が住まなくなって取り壊されるかもしれない家をよみがえらせる仕事に生きがいを感じていると言う。住む側としても、ちょっとした不具合なら大家さんに電話をすれば駆けつけてくれて修理してくれる。ありがたいアフターサービスだ。
都会を離れて自給自足の生活をする人たち
塩山の駅前の広場で月に一度、朝市をやっている。新型コロナウイルスの影響でしばらくお休みだったようだが、12月は久々の開催で、ずいぶんとにぎわっていた。古着や農作物、アクセサリーなどのお店が並んでいる。読み聞かせやマッサージをしている人もいる。
弘美と一緒に回った。きっと面白い人と出会えるに違いないという予感があった。山梨には東京からの移住者が多い。現代社会は、便利さや効率、生産性が重視されている。より速く、よりたくさん、より快適に、を求めるライフスタイルが当たり前になっている。都会ではその傾向が特に顕著だ。たくさんの人がストレスをためながらも、「もっと、もっと」の生活から抜け出せないでいる。それにうんざりしている人たちが、スローな生活を求めてこの地に移住してきているのではないか。2020年はコロナによって、従来の生き方の限界が見えてきた。新しい生き方を見つけ出さないといけない。地方に移住してスローな生活を実践している人たちが楽しく充実した日々を送っているなら、新しい時代の生き方を考える上で参考になるはずだ。
ぶらぶら歩いていると大きなショウガが目に入った。
「これご自分で作ったんですか?」
そんなの当たり前だろと、質問してから恥ずかしくなった。わざわざどこかで仕入れて売っているはずがない。
「そうですよ。無農薬無肥料ですよ」
立派な大根や白菜も並んでいる。すべて自家製で、農薬や肥料を使わずに作ったそうだ。値段も安い。大きなショウガを購入し、いろいろ話を聞いた。
10年ほど前まで家族5人、東京で暮らしていた。子どもたちに寂しい思いをさせながらの共働きで稼いだお金は、高い家賃に消えていく。食費もバカにならない。満員電車での通勤にも疲れた。会社での人間関係もわずらわしい。
「田舎へ行こう」
夫婦で話し合って決めた。あちこち回って選んだのが山梨だった。静かな山の中の小さな家が見つかった。夫婦でリフォームした。畑もある。子どもたちも伸び伸びと過ごせそうだ。
見よう見まねの畑作業。うまく作れず、食材をスーパーで買わなければならないこともあった。畑仕事は楽しかったが、最初のうちは東京での生活を不便にして、縮小した感じだと不完全燃焼だった。しかし、2年3年とやっているといい野菜が作れるようになる。とれたての野菜で作った料理は格別だ。収量も増えて、こうやって市場でも売っているのだと、うれしそうに話してくれた。子どもたちも大きくなって、畑仕事や販売を手伝ってくれるそうだ。
次に立ち寄ったのは、「夫婦2人でやっている小さな農園」というキャッチフレーズのテント。農薬や化学肥料は一切使わない農法でお米と野菜を育てているそうだ。私たちが驚いたのは、省エネ暮らしを心掛けていて、日々の生活電力が10アンペア契約だというところだった。
と言うのも、わが新居も古い家なので引っ越した当初は10アンペア契約だった。冷蔵庫が入ったばかりで、部屋の電気を付けて、寒かったのでエアコンを入れたらブレーカーが落ちた。あわてて電力会社に電話をしたら、10アンペア契約と知った担当者が、「それでは生活ができませんから」とすぐに30アンペアに上げてくれた。10アンペアとはそういうレベルなのだ。
にこやかに話をしてくれるご夫婦だったが、自給自足で生きていくという、彼らの強い気持ちが伝わってきた。ご主人は地元の人、奥さんは関西から嫁いできたそうだ。一度、農園に遊びに行きたいと思っている。
11月12日、東京の家から荷物を運び出した。13日に山梨県甲州市の新居に段ボールが届き、いよいよ山梨での生活がスタート。引っ越しをきっかけに断捨離をと考えたが、なかなか思うようにはいかないもの。でも、ベランダから富士山がのぞめるいい場所に導かれた気がする。
結婚してから約30年。今回が5回目の引っ越しとなる。東京の中野区での2人の生活から始まって、埼玉の浦和市(現さいたま市浦和区)で長女の氣子が生まれ、川越市の一軒目で次女の氣恵、三女の氣歩が家族の仲間入り。二軒目に7年余り住んだあと、10年前に東京の東久留米市に居を移した。長女の氣子が奈良の大学へ行ったのがきっかけで、10数年にわたる5人家族が細胞分裂を始め、4年後、氣子が卒業して戻ってきたと思ったら、今度は次女の氣恵が一人暮らしをすると言い出し、去年(2020年)は三女の氣歩も札幌の専門学校に行くことになった。
山梨への引っ越しが急に決まり、氣子は仕事の関係で東京に残ることになって、これからは20数年ぶりに妻と2人の生活に戻る。長年一緒に暮らしているので、考え方や行動のパターンはけっこうわかるようになったが、それでも改めての2人きりの生活となると、お互いに違った面も見えてくるだろうと楽しみにしている。
変化は刺激だ。引っ越しというは、変化の中でもけっこう大きな部類に入る。労力も時間も使う。その分、たくさんの刺激がある。刺激は氣を活性化させる。
荷物が多くて氣の流れが滞っていることはしばらく前から感じていた。ぼくの場合は、いつか必要になるかもしれないと思ってとっておいた本や資料が山積みになっていた。毎週1冊読んでも生きている間に読み切れるだろうかと思えるほどの本の量。「面白そう」と思ったら見境もなく買っていた時期がある。直感と言えば聞こえはいいが、そのまま本棚に眠ってしまうのだから、ぼくの直感もあまりあてにならない。本は読んでもらってこそ価値がある。積まれたまま時間ばかりがたっていく状態は、たぶん幸せではなかっただろう。本当に申し訳ないことをした。「ごめんなさい」と「ありがとう」の気持ちを込めて、少なくとも半分は処分しよう。
本を書くときに使った資料も、見直すとどれも懐かしいものばかり。捨てるのは忍びないが、もう十分に役に立ってくれたものなので、これも感謝を込めてさよならだ。
家内もあれこれ買い込んできて捨てられないタイプ。娘たちの部屋も洋服とか趣味のアニメグッズで部屋があふれている。
引っ越しでもなければ、持ち物を見直し減らす機会はどんどん先延ばしになったはずだ。中国医学では、氣が不足したり滞ると体調が悪くなると言われている。わが家も氣の流れが悪くなってしまっていて、引っ越しをすることで氣の流れを回復させ、活性化しようという力が働いたのかもしれない。
断捨離という言葉が流行って10年以上がたつ。やましたひでこさんの片づけ術の著書が大ブームになった。そのタイトルが「断捨離」だった。彼女はヨガを学んでいて、師である沖正弘氏の提唱したヨガの思想を、主婦目線で実生活に応用した。真氣光研修講座にも参加しており、先代のこともよくご存知で、本誌での会長との対談では大いに盛り上がった。
ぼくも彼女の考え方には大賛成だ。物への執着をなくす。身軽に暮らす。それがいい氣を呼び込む大切なポイントであることは間違いないと思う。
ぼくが引っ越した先は山梨県甲州市。最寄り駅は中央線の塩山。もともとは塩山市と言ったらしいが合併で甲州市になった。どんなところかはまだよくわからないが、武田信玄の菩提寺である恵林寺があるなど、偉大な戦国武将とのかかわりが強いところのようだ。
我が家のすぐそばに「塩ノ山」という標高554メートルの小高い山がある。ぼくが仕事場にしている2階の和室の北側の窓を開けると、塩ノ山の紅葉した木々と青空の景色が飛び込んでくる。緊張していた神経がぱっと緩む。癒しのエネルギーを感じさせてくれる山だ。
3ヶ月ほど前、不動産屋さんに案内されたときから気になっていた。
不動産屋さんはこう言った。
「この山の真南が富士山なんですよ。それに形がピラミッドに見えるでしょ。古墳だと言う人もいるし、何かいわくのありそうな山なんですよ」
築50年の「もろ昭和」という古い家だが、塩ノ山の存在は、この家の付加価値だと感じた。頂上まで30分ほどで行ける。運動不足の身でも何とか登れそうだ。いい運動になるし、何かミステリアスなものがありそうなワクワク感が、この山にはある。
「ここに住もう」
そう決めるや、さっそくネットで調べてみた。やはり面白い。
眉に唾をつけて聞いてもらっていいのだが、「塩ノ山」の名前の由来は「シオン」からきているという説があるそうだ。シオンというのは、聖書に出てくる聖なる丘の意味で、実際にエルサレムの南東にあるらしいのだが、本当のシオンは塩ノ山だと言っている人がいるのだと言う。シオンの山かどうかはともかく、霊感のある人がこの山に聖なるエネルギーを感じて、そんな噂が広まったのではないだろうか。
確かに横から見るとピラミッドに見える。上から見た写真をネットで見つけたが、勾玉の形になっている。ピラミッドと勾玉と言えば、宇宙のエネルギーと深い関係がある。古代人が氣を集めるために人工的に作ったものかもしれない。ひょっとしたら、塩ノ山は巨大なハイゲンキ? 妄想が広がる。
そして、話はさらに怪しさを深めていくが、UFO目撃談がいくつもネットに書き込まれている。塩ノ山の頂上付近で光る物体を見たと言うのだ。山のふもとに飛大神社(とびのみや)という発祥のわからない神社がある。塩ノ山をご神体としているのでは見られているが、「飛」という字から推測するに、空を飛んでいる何かを崇めていたのではないかとUFOを連想させる話もまことしやかに語られているようだ。普通の山ではないことは確かだ。
ぼくは塩ノ山の存在を知ってここに越してきたのではない。不思議な山のことは引っ越してから知ったことで、こういう偶然こそ、大きな力の導きではないかと感じる。
これまでの5回の引っ越しを振り返ると、まるで家が待っていてくれたかのようにスムーズに転居先が決まった。今回も同じような流れで山梨にやって来た。何かの縁ややるべきことがなければそこに住むことはない。これから何をやるべきか、引っ越しがとても重要なヒントをくれているような気がする。
UFOの研究をするつもりはないけれども、場のエネルギーは、ぼくにとっての大切なテーマだ。部屋の片付けも塩ノ山も、これからのぼくの活動のきっかけになってくれているはずだ。さて、これからどんなことが起こってくるのか。大きな時代の変わり目の中で、とてもエキサイティングな体験のチャンスをいただけたような気がする。
行動派をお休みして、しばらく小原田の「甲州移住ライフ」にお付き合いいただければと思う。ちょうど本誌が発刊になる11月中旬から、ぼくは山梨県甲州市に移り住むことになった。東京、埼玉で暮らして35年。新型コロナウイルス騒ぎとひょんな出会いがきっかけで、まさかまさかの山梨暮らし。果樹園とのコラボも企画中。どんな生活になるのか、想像もつかないが、毎月、ぼくの身のまわりで起こる出来事をレポートしたいと思う。
ぼくは三重県の生まれで35年前に東京へ出てきた。妻は札幌生まれで東京生活は30年弱だ。縁もゆかりもなかった山梨。そこに移住することなど、この夏まで考えてもなかった。
そもそもの始まりは、昨年、次女・氣恵が友だちとキッチンカーを始めたこと。高校時代からラーメン屋や居酒屋でアルバイトをしていた次女。普通に就職する気などまったくなかった。かと言って、ずっとアルバイトでいいとも思っていない。
氣恵は、子どものころからどんなことも器用にこなせた。しかし、ある程度までスキルアップすると、「もう飽きた」と違うことを始める。自分の得意なことをどんどん深掘りしていく長女・氣子や三女・氣歩とはまったく違うタイプだ。
とても気の利く子で飲食業には向いている。昨年の夏ごろ。居酒屋のバイトにも飽きがきて、本人もこれからどうしようかと迷っている様子だった。転機を迎えているなという予感がした。
そんなときの妻・弘美のひらめきがキッチンカーだった。
弘美の真氣光歴は30年以上になる。人生というのはひょんなことから大きく変わるものだと思う。まだ彼女が独身時代、交通事故でひどいむち打ち症になり、もう治らないとあきらめかけていたときに母親の知り合いが1枚のチラシを届けてくれた。真氣光の無料体験会の案内だった。疑心暗鬼で会場に出かけたが、たった15分のビデオ氣功ですっかり良くなってしまったのだ。
ここから彼女の真氣光人生が始まった。ハイゲンキを購入し、セミナーに参加し、真氣光研修講座も受講した。さらに、先代会長のもとで働くために上京する。スピリチュアルな能力が芽生え始め、オーストラリアでのイルカとの意識交流でも先代会長に同行した。ぼくと結婚したのはその後のことだ。今は、真氣光をベースとしたヒーリングや占星術を生業としている。
真氣光と長くかかわっていることで弘美のひらめきはどんどん冴えてきている。キッチンカーはタイムリーなアイデアだとぼくも感心した。しかし、神様は直球ばかりを投げない。ひらめきがそのままうまくいくとは限らないのだ。
新型コロナウイルスでキッチンカーはとん挫してしまった。アウトレットモールを中心に出店していたのだが、すべてキャンセルとなったのだ。銀行から融資を受けているし、これを返済していくのも容易なことではない。いやはや、お先真っ暗。
さてどうしたらいいか。2人で考えているうち、ぼくと弘美が同時に頭に浮かべたのは、知り合いから紹介された果樹園のオーナーだった。真っ暗な中に小さな光が現れたという感じだった。最初のひらめきは単なるきっかけで、その奥にあるドアを開けたときに、これが真意かなと思える景色が見えてくることがある。神様の変化球。大きく曲がった。ぶつけられるのではと冷汗をかいた。
オーナーはアルミ関係の会社の役員をやりながら、山梨で桃やブドウを作っているという変わった人だ。三男が障がい者だということがあって、障がいのある人も病人も高齢者も働ける農園作りを目指していた。氣恵と友人は、ときどきそこへ遊びに行っていて、オーナー家族とはとても親しくなっていた。
「彼女たち、果樹園で働かせてもらうというのはどうだろう?」
そう思った途端、イメージがどんどん広がっていく。コロナが治まったあと、果樹や加工品をキッチンカーで売ればいいじゃないか。そのためには、果樹の栽培も体験した方がいい。
3月も終わりころになると、東京がロックダウンされるかもしれないという雰囲気が広がってきた。もうぐずぐずしていられない。オーナーに連絡を取った。話は早かった。4月から氣恵たちは山梨で働くことになったのだ。
一瞬先はどうなるかわからないけれども、わからないからと言って立ち止まっていてはいつまでも希望は見えてこない。たとえ前に霧がかかっていても、うっすらとでも道が見えていたら勇気を出してゆっくりと進んでみる。その先のことは、5メートルでも10メートルでも前進してから考えればいい。少しずつ進むうちに霧が晴れて、広くてきれいな道が見えてくることはよくあるものだ。あのままキッチンカーに固執していたらどうなっていただろうか。ひょっとしたらいい出店先が見つかったかもしれないが、違う方向に活路を見出そうと動いたことで明るい未来が開けてきた、という感覚がぼくたちにはある。少なくとも悔いのない選択ができたとは思っている。
氣恵が農園で働くようになってから、ぼくたちも何度か山梨を訪ね、オーナーたちのご家族とワインを飲みながらあれこれ語り合った。つい2ヶ月ほど前、オーナーの口から「アグリヒーリング」という言葉が出た。
アグリカルチャー(農業)とヒーリング(癒し)。農業は作物を生産するばかりではなく、農作業をすることで癒される人がたくさんいる。自然の中で働くことでストレスが解消される。富士山を見ながら農作業ができるなんて最高だ。種をまけば芽が出てきて花が咲き実がなるという成長の過程を見ると、作物が愛おしくなり、命とはこういうものだという気づきがある。雑草や虫や微生物がとても重要な働きをしているということを身をもって感じれば、環境問題にも意識が向く。感謝の気持ちも湧き上がってくる。
「農業を癒しの手段として使えないだろうか」
オーナーの考えには大賛成だ。「一緒にやっていきませんか」という誘いに、ぼくたちは大きくうなづいた。常に新しいことに挑戦したいという進取の精神をもっているオーナーだからこそ、ぼくたちが「癒し」をテーマにした活動をしていることを知って、何か感じ取るものがあったのだろう。
癒しのポイントは、まず人が集まること。かつてホピ族の村へ行ったとき、メディスンマンから「癒しは体験の分かち合いだよ」と教えてもらった。人が集まって話をすれば、自然と体験の分かち合いが生まれる。その上で、農作業をすれば、体験がもっと広がっていく。そんな活動にこれから力を入れていきたい。